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螺旋

知識・知恵

こんばんは、HOLSです

今日は少しセンシティブな内容になります

7月18日 俳優の三浦春馬さんが自殺されご逝去されました 

芸能界にうとい俺でも、割とショッキングなニュースでした 

ヒトはなぜ自ら死を選択するのでしょうか 

このような出来事がおこると必ず巻き起こる一般世論です 

特に三浦春馬さんのような、ルックスにも恵まれ、おそらく人柄も良く、一見順風漫歩に見える方が亡くなると、より大きな疑問が残ります 

なぜなのか 

今日は俺なりに「自殺」について分析してみようかと思います

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自殺するのはヒトだけか

まず、生物学的に自ら明確な意思と意図をもって命を絶つ行為を行うのは「ヒト」だけです

確かにある小動物が一斉に崖から転落して自殺するといった奇妙な行動がみられることも事実ですが、これは自殺というより、増えすぎた個体数を調整する行為=集団的本能的行動と一般的に言われています 

そのため、個体単位で明確な意思を持つものではなく、ヒトの行う自殺とは一線を画するものと考えるべきです

では、ヒトとその他生物を区別するものはなにか

人間を人間たらしめているものとはなにか

それは脳=知能

最もヒトに近い生物であるチンパンジーとの大きな違いは前頭前野の肥大化にあるそうで、これによりヒトは言葉でコミュニケーションをとったり、複雑多様なコミュニケーションをとれるようになったと言われています 

脳以外の遺伝子はほぼ同じとのことです

つまり、ヒトは「知恵」という大きな果実と同時に、「自殺することができる」という禁断の果実を得たと言えます

言い方を変えれば、自殺とは、人間の最も人間らしい行為、とも言える

なかなか皮肉な話ですね 

自殺する原因

これは一概に言えませんよね

なぜなら、本当の理由は当の本人にしかわからず、もはやその人から理由を聞き出すことはできないからです

ただ、個人的経験からいくつか分析できることもあると思いますので列挙してみます

1 耐え難い苦痛・苦しみからの解放

「人生は地獄より地獄的である」と言葉を残し本当に自殺したのが芥川龍之介で、俺が好きな文豪の一人です

自殺者に最も多い理由がこれではないかと思っています

学校のいじめ問題なんかもこの類に入りますよね

よく人は人が自殺をすると「死ぬ勇気があるなら死ぬ気で生きればいいのに」といった論争を巻き起こす

が、その時点で全く的外れな議論を展開していると思うんです 

死ぬことよりも、生きることがのほうが辛い、苦痛、それは肉体的あるいは精神的にという意味ですが、そのような人に、「死ねる勇気があるなら・・・」と言うのは完全に論理から外れています 

そういう的外れな意見には「生きることより苦しいことがないから死ぬんです」と言い返してやればいいと思いますね

2 生きていることに興味がなくなった 

苦痛は伴ってはいないが、もはや生きる理由が見つからない 

これも割と多い理由ではないかと思っています、特に現代においては。

ヒトは好奇心をベースに生きている生物であり、それは大きな生きるエネルギーでもあります 

特に、賢い人、ある程度の未来を予見できてしまう人に多いのではないかと思いますね 

芥川龍之介など、頭のキレる人間はこのタイプが多い 

人生が苦痛というわけでもなく、楽しいというわけでもなく、なぜ生きているのかわかならい、最初はそんな始まりなのかもしれませんね

程度の大小はあれ、誰しも一度は考えるのではないでしょうか

3 名誉・犠牲としての自殺 

これは現代ではなかなか当てはまらないとは思いますが、それこそ明治維新までは多くの武士が切腹をして亡くなっています 

もちろん不本意なところもあったでしょうか、史実として、自殺が一種の名誉的行為の位置付けであったことは間違いありません

世界大戦中の神風特攻隊もしかり 

死ぬことにより、生前より大きな価値観を自分に与える 

現代では、IS等の宗教的テロ行為が該当します

つまり、宗教的観念や組織的理念がこのような自殺を生み出すのかもしれませんね

無論、完全な個人の意思ではなく、半ば強制的に強いられた死も多くあったと思います

これはあまり触れないでおきます 

4 メッセージとしての死

「死ぬほど訴えたいことがある」ということを本当に証明することができるのは、実際に死ぬことです 

無茶苦茶な論理に聞こえるかもしれませんが、行動に勝る証明はないわけです

もしかしたら三浦春馬さんはここに該当しているのではないだろうか、と個人的に考えてます

例えば、かの有名な自衛隊で割腹自殺を遂げた三島由紀夫さんは完全にこちらに該当していると思います

つまり、政治的メッセージなど、何をおいても世間に伝えなければならないことがある、自分の命と引き換えに ということです

この部類は発信力のある人間に多いのではないでしょうかね

仮に俺が何かを訴えるために死んだとしても、悲しいかな、新聞の片隅にも掲載されることはないでしょうね・・・

自殺を止めることは正義なのか

もし三浦春馬さんと今まさに話ができるなら 

多くの関係者や友人家族が自殺を止めるよう説得するでしょう

もしそうなれば本人の意思が変わるのか、それは誰にもわかりません

もし今あなたの周りに自殺しようとしている人がいたら、あなたは何と声をかけますか?

非常に複雑かつ難解な問題ですし、その理由によっても変わるかもしれません

俺はこう思うんです

生きる権利があることと同様に、ヒトには死を選ぶ権利がある 

こんなこと学校の命の授業で言えばPTAやマスコミが血相変えて乗り込んでくる姿が目に見えますが、本当にそう思っています 

もしも死ぬことすら許されない社会が成立したら、、そんな残酷なことはないと思うんです 

ヒトに残された最期の自由  それが死だと思うからです

無論、自ら死を選択せず、普通に生きて普通に病気や寿命で死ぬことが誰しもが認める「ハッピーエンド」であり、教科書に載る生き方、死に方だと思います

学校では必ず決まり文句のように「命を大切に」と教えられます

しかしそれ以前に「命を大切にするとはどういうことか」、「個人を尊重するとはどうゆうことか」という教育が抜け落ちていると思うのです

自殺をする人は命を大切にしていない、そんな論調があまりにも世の中にははびこりすぎています

むしろ、命と真剣に向き合った結論が「自殺」だとしたら、それは非常に価値のあった人生ではないか、そう思うんです

じゃあお前は周囲の大切な人間が死を選ぼうとしているとき、「それは君の自由だよ」と伝え自殺を後押しするのか

もちろんそんな言い方はしません

本当に自分にとって大切な人間であるならば

「それは君の自由だよ。ただ、君が死ねば、少なくとも俺は本当に悲しい。生きる気力が無くなるぐらいに。」と正直に伝えますかね 場合によっては涙も流すかもしれません

だから自殺を止めることは必ずしも正義ではないと俺は思います

ただし、未成年者については異なります

あくまで、自分と同程度もしくはそれ以上の社会人、いわゆる大人に対しては、です

未成年者については、まだ知らないこと、経験したことがないうえでの自殺が非常に多く、個人的には最も悔やまれる死だと思っているからです

一歩外に出れば、「なんだこんなことだったのか」ということだらけだからです

ただし、社会人に対しては教科書的な声かけや相談に乗ることも一切不要

ただただ、相手を尊重したうえで、自分の意志を最期のタイミングだと思って真剣に伝える

それだけでいいんじゃないでしょうか

本気でその人を想って伝えた意志ならば、その熱量が相手を変えることもあるはずです

ただ、その結果相手が自殺したとしてもあなたが何かを悩む必要は全くない

それ以上に死への魅力があった、それだけのことです

死の立ち位置

社会的には、どうしても「死」というものはネガティブな概念に位置付けられます

そしてなぜか自殺は故人について話すことさえもタブー視されがちです

表と裏、破壊と創造が表裏一体のように、「死」なしには「生」は成り立たないはず

英雄視されている「生」に対して、立役者の「死」は何故か嫌煙されてしまう

これは長らく続いている悪しき教育・慣習に他ならないと言わざるを得ない

葬式では皆が同じ黒装束をまとい、わけのわからない社交儀礼と念仏がその空間を重たく漂わせ、何日にも渡って「供養」と称して残された者に苦行を課す

おっと、あまり宗教的・政治的なことは書かないように心がけていたのですが、少し出てしまいました、申し訳ない

何より愚かなことは、その儀式の参加者の大半が、何を意味した儀式かも理解しておらず、まさにただの形だけの「通過儀礼」となっていることです

特に他人の顔色をうかがってばかりの日本人には多い 

いやお前は文化を、儀式をバカにしている

そう言われても仕方がないですが、いつも俺は思うんです

声が出せない人、耳が聞こえない人、歩けない人は死を悼むことすらできないのか

念仏、賛美歌、儀礼、そんなものはただの「かたち」です

真に大切なことは「祈り」です

祈りは見えず、聞こえず、形を持たない

一体どれだけの参加者が心から相手を祈っているのだろう、いつも思います

あなたに子供がいる場合、お子さんが生まれる主観、シチュエーションはどうあれ、祈りませんでしたか?

「どうか無事に産まれてくれ」と

そのお子さんが亡くなったら、あなたはどうしますか

俺なら祈ります

どうか魂が救われてくれと

その後の自分の行動はわかりません

もはや生きる意味はないと思えば自殺する選択肢もあり得るでしょう

こういうことを言うと縁起でもないことを言うなと、そう言われそう

しかし、身近な人がいつか亡くなることは常に考えておくべきです

そうすることで、今が奇跡であること、得がたい瞬間であることを実感できます

死は恐れるものでも、悲観するものでもない

生けるもの全てにいつかは訪れる最終話であり、命が尊いことを教えてくれる唯一の導師です

結論

さて、少し話がそれましたので戻します

今のところあまりにも暗い内容(個人的はそうでもないんですが)なので最後は少し前向きに締めくくりたいと思います

好きな言葉があります

人生 客に来たと思えば 何の苦もなし

歴史上のある人物が残した言葉です

生も死も非常に前向きに捉えた言葉だなぁと思います

生きることだけにフォーカスした言葉ではないと思っています

死ぬことも、人生にとって重要なエッセンスであり、決して悲観的なことではない

生と死の狭間で揺れるヒトという不安定な存在のすべてを優しく包み込んでくれる言葉

そう思わせてくれる

このブログは先に内容を書きました

生と死について真剣に考えた結果、頭の中に螺旋構造が浮かびタイトルを決めました

同じような構造だが決して交わることがなく無限に広がる構造

そんなイメージです

今日はこれで締めます

おわり

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